「…してはいけない」という思いが慢性的なウツを生む

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Aさんは、子供のころから秀才だとまわりに褒めそやされて育ちました。期待を裏切ることなく、高校までずっと優秀な成績で通し、地方の高校から、東大の法学部に入学したのです。彼は子供のころからバイオリンをやっていましたので、入学後は、オーケストラ部に入ろうと思っていました。しかし東大のオーケストラ部は、専門家も驚くほどの技術を誇っています。そこで、彼は同好の仲間たちと合奏をするグループを作り、会合の余興としてその腕を披露して楽しんでいました。それなりに充実した大学生活を送ったあと、彼は公務員のI種試験に受かり、ある官庁に入りました。真面目な仕事ぶりで、将来を嘱望される存在となっていました。そのころのことです。私は彼の父親と面識があったのですが、「息子は何事にも楽しい思いができないと言っている」と少し心配しているような口ぶりで話しているのを聞いたことがありました。そのときは、私も「でもA君は、音楽などやって芸術を楽しんでいるでしょう」と問い返したのですが、「いやバイオリンもうまいのですが、本当に音楽が楽しくてやっているのではないと言うのですよ」と言うのです。その後、その官庁のAさんの上司がある企業と癒着していることが報じられ、彼は日夜その対策に追われて大変らしいということを風の便りに聞きました。それからしばらくしてのことです。新聞で、彼が自殺したことを知ることになりました。ここまで育て、前途を楽しみにしてきたご両親の嘆きは並大抵ではありませんでした。周囲の人たちも親の悲嘆を見るにつけ、なぜ自殺などしたんだろうか、こんな親不孝はないのにと、ご両親に深く同情しました。

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それからしばらくして、私は父親からハガキを頂きました。私は以前から自著を謹呈しはていたのですが、そこには、「最近先生の本を読み、息子のことに思いを馳せますと、息子は喜びを感じられないアンヘドニアという状態ではなかったかなどと考えています」と書いていました。アンヘドニアとは、快楽を感じにくい状態のことをいう専門用語です。イギリスのヴィクトリア王朝時代は神経衰弱と呼ばれた状態の一つでしたが、オーストリアの心理学者のフロイトは、神経が衰弱しているのではなく、心理的に引き起こされるものだと考えました。フロイトの理論では、子供のときに「あれをしてはいけない、遊びより勉強だ」などと親に躾けられると、その考えが心の奥にこびりついてしまい、大人になっても何も楽しめなくなるのだとされています。アンヘドニアの人は、喜びを感じにくいため、ますます働いて富を得ようとか、名声を得ようとするのです。したがって大きな仕事をなした人にアンヘドニアは多いのだと言う専門家もいますが、いくら成功しても、心は晴れませんから、本人にとってはつらいのでアンヘドニアの治療には、フロイトが提唱した精神分析が最適とされていたこともありましたが、現在では、脳内の神経伝達物質、いわゆる脳内物質の一つであるセロトニンを増加させる薬であるプロザックを処方するようになりました。アンヘドニアの人も、プロザックを服用すると、症状が消え、人生に楽しみを感じられるようになるのです。このことから、現在では、アンヘドニアはウツ病の一種だと考えられています。もともと、喜びを感じない心は、慢性的なウツな気分を生んでいるのです。その結果、追いつめられたとき、どういう手を打ったらいいか、決断できなくなってしまいます。アンヘドニアとまではいえないものの、いわゆるエリートといわれる人は、自分で自分を抑圧しつづけた結果、ウツ気分が慢性化しているといえましょう。